「新浄瑠璃 百鬼丸」についての追記
2009年 07月 17日
いやぁ、この芝居がどうやらツボにはまってしまったらしい。
極度の金欠だっていうのに、扉座の以前の舞台のDVDを買っちゃおうかと、マジで悩んでる。(だいたいこういうときには、次の日くらいにもう買っちゃってるっていうパターンなんだな、たぶん)
まあ、前にも書いたとおり、原作の「どろろ」が相当好きなんだよね。それと、大昔のアニメ版とも。
でも、この芝居、実はけっこう原作とは違う。まあ、百鬼丸の基本設定(実の父親が、己の野望のために妖怪と取引をしたため、生まれたときから身体の48箇所が欠けている)あたりは同じだけれど。
それ以外は、強い若者として描かれていた百鬼丸が、無力な赤ん坊だったり、少年(あるいは少女?)だったどろろが、大人の男だったり、物語の印象を左右するような部分が、原作とは異なっている。
それはそれでいい。同じである必要はないのだという気がする。原作の持っていたエッセンスはきちんとつながっているのだから。
どろろに助けられて旅する、赤ん坊の姿の百鬼丸、その『声』と『影』を2人の役者さんが演じるのが、この舞台のひとつのポイントだろう。
女性が演じる百鬼丸の『声』は、幼い者の『心』の無垢な気高さを。男性が演じる百鬼丸の『影』は、力強い『身体』を。それぞれの乖離とそしてまたひとつになる様子が、ドラマティックに描かれている。
失った身体を取り戻す旅。その身体を取り戻したとき、見失う自分自身。
その傍らにいるどろろは、平凡な人間の弱さや愚かさを見せながら、幼いものを守って旅を続けるうちに、しだいに同じ平凡な人間の優しさゆえの勇気や知恵を感じさせてゆく。
この、舞台上にほぼ出ずっぱりでいる3人が、やはり印象に残っているのだが、特に黒衣の『影』から、身体を取り戻した百鬼丸に変わる累央さんの、そのあとの動きの美しさや葛藤を抱えて母に刃を向ける場面、最後に花を見るその表情などが、何度も思い出されてしまう。
浄瑠璃で語られるこの物語。ある種、神話めいた普遍性を得て、観るものの心に響いてくる。そういう舞台だった。
極度の金欠だっていうのに、扉座の以前の舞台のDVDを買っちゃおうかと、マジで悩んでる。(だいたいこういうときには、次の日くらいにもう買っちゃってるっていうパターンなんだな、たぶん)
まあ、前にも書いたとおり、原作の「どろろ」が相当好きなんだよね。それと、大昔のアニメ版とも。
でも、この芝居、実はけっこう原作とは違う。まあ、百鬼丸の基本設定(実の父親が、己の野望のために妖怪と取引をしたため、生まれたときから身体の48箇所が欠けている)あたりは同じだけれど。
それ以外は、強い若者として描かれていた百鬼丸が、無力な赤ん坊だったり、少年(あるいは少女?)だったどろろが、大人の男だったり、物語の印象を左右するような部分が、原作とは異なっている。
それはそれでいい。同じである必要はないのだという気がする。原作の持っていたエッセンスはきちんとつながっているのだから。
どろろに助けられて旅する、赤ん坊の姿の百鬼丸、その『声』と『影』を2人の役者さんが演じるのが、この舞台のひとつのポイントだろう。
女性が演じる百鬼丸の『声』は、幼い者の『心』の無垢な気高さを。男性が演じる百鬼丸の『影』は、力強い『身体』を。それぞれの乖離とそしてまたひとつになる様子が、ドラマティックに描かれている。
失った身体を取り戻す旅。その身体を取り戻したとき、見失う自分自身。
その傍らにいるどろろは、平凡な人間の弱さや愚かさを見せながら、幼いものを守って旅を続けるうちに、しだいに同じ平凡な人間の優しさゆえの勇気や知恵を感じさせてゆく。
この、舞台上にほぼ出ずっぱりでいる3人が、やはり印象に残っているのだが、特に黒衣の『影』から、身体を取り戻した百鬼丸に変わる累央さんの、そのあとの動きの美しさや葛藤を抱えて母に刃を向ける場面、最後に花を見るその表情などが、何度も思い出されてしまう。
浄瑠璃で語られるこの物語。ある種、神話めいた普遍性を得て、観るものの心に響いてくる。そういう舞台だった。
by kiki_002
| 2009-07-17 23:58
| 舞台